
巨大な連通管を作るための挑戦、莫大な建設費用と労働力の確保など。布田保之助が夢見た「通潤橋」の落成までには、さまざまな苦労がありました。
水を通すために必要だった石の管


巨大な連通管を作る保之助の困難を極めた挑戦は続いていました。木製の水管は、水圧によりことごとく破損。もはや、石の管しかない。大変な労力をかけて、石の管を鑿(のみ)で削り出しました。 しかし、さらに苦心したのがこの石管の連結です。溶かした鉄で隙間を埋めると、熱で石が割れて、失敗。漆喰は水圧で弾き飛ばされて、失敗。特性の材料を作るしかありません。 松の油が水を弾く事に着眼し、松の葉、赤土、川砂、貝の灰、塩を混合して、さまざまな製法を試し、ついに石管と石管の隙間を必要な強度で防ぐことに成功しました。命の水を一滴たりとも漏らさないという執念が実ったのです。

石山信次郎さん
通潤橋史料館・アドバイザー
山都町の石橋を守る会


形が鳳凰に似ているので、鳳凰柱状節理岩とも呼ばれています。
嘉永5年12月、ついに着工
17歳の少年が青空を見ていたあの日から35年の月日が流れました。布田保之助は52歳になろうとしていました。駆けずり回って資金を集め、農民たちに呼びかけて労働力も集めました。農民たちは「こぞって」参加の意志を表明したそうです。

嘉永5年12月、着工。 大工は原木の切り出し、石工は石材の切り出しにかかります。材木でアーチ型の木枠(支保工)造りが始まり、その支保工の上に両側から切石を並べて輪石としていきました。


輪石が完成したら壁石を築きます。壁石を支えるため、武者返しと同じ曲線を持つ鞘(さや)石垣を壁石の下方部分に築きます。石管を削り出して運び上げたら、石管を連結していきます。
これだけの大工事にもかかわらず、落成式はわずか1年8ヶ月後でした。しかも、一人の犠牲者も出していないと言われており、保之助の指揮の的確さを思わせます。

通潤橋の大工事には、こんなユーモラスなエピソードが残っているそうです。
覚悟の落成式
嘉永7年(1854年)7月29日、ついに落成式の日を迎えます。橋の中央には紋服に威儀を正した布田保之助が正座し、短刀を懐にしていました。工事が失敗した場合には、切腹して命運をともにする覚悟だったと伝えられています。 支保工が取り外されました。一瞬、土煙と轟音。橋が崩壊したかのような音がしました。 しかし土煙が去ったとき、そこには石橋がびくともせずに存在していました。
だが、問題は通水です。ドンと、ついに合図の太鼓の音が響き渡りました。取り入れ口の水門が開けられ、水が水路をひた走る音と振動が伝わってきます。その音は高まり、激しさを増します。水圧に耐えられるのか?それとも、水圧に負けて橋は崩壊するのか?やがて白糸台地側で村人の声があがりました。
「吹き上げた!」
橋を通り抜けた水が、吹き上げ口からほとばしり出て、白糸台地へ流れ込みました。通水は成功したのです。水しぶきのなかに虹が立ちました。布田保之助は、水門から流れ出る水を手の平に掬い、押しいただくようにして飲んだと伝えられています。17歳の少年の瞳に映った幻は、現実の空の水路となったのです。
潤は草木百物に及ぶ


※現在は118ヘクタール。

種山石工・丈八(後の橋本勘五郎)は、通潤橋完成での天才的技術を認められ、明治政府から招聘を受けた後、皇居の旧眼鏡橋や日本橋、浅草橋、江戸橋、万世橋などを作りました。
当初は「吹上台眼鏡橋」と呼ばれていましたが、布田保之助の事業申請を審議する奉行だった真野源之助が布田保之助に請われて、中国の古典「易経・程氏伝」にある「澤は山下に在り 其の気上に通ず 潤は草木百物に及ぶ」という文章から採択して、「通潤橋」と命名されました。
布田保之助は明治6年、その功により、明治天皇から銀杯と絹織物を賜りました。その2ヶ月後の4月3日、72歳でその生涯を閉じました。