今に続く通潤橋の恩恵

今に続く通潤橋の恩恵

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今もなお、現役の水路として田畑に水を送り続ける「通潤橋」。水の恩恵を受けながら農業を続ける農家の方に、通潤橋への思いを伺いました。

布田保之助と通潤橋への思い

昭和39年、ヒューム管が新設されて白糸台地への送水を開始しました。 このヒューム管のメンテナンスの時などは通潤橋が水を渡します。通潤橋は今もその機能を失うことなく、現役の水路として水を送り田畑を潤しています。そして、白糸台地の人々の通潤橋への思いは変わりません。昭和3年、白糸台地に生まれて、農業を営んで来られた村上末春さんにお話を伺いました。小さな頃から、通潤橋の物語を聞かされて育ったそうです。

通潤橋
村上末春さん

村上末春さん
村上末春さん
農業/通潤橋案内ボランティア

村上さん:「布田保之助は惣庄屋になり、28年間勤めました。おもな仕事が164カ所。14カ所の眼鏡橋、用水路が通潤水路を含めて24カ所、ため池7カ所、矢部郷で118町歩の田んぼができました。4月3日が保之助の命日です。それで、月命日の毎月3日に、歌を歌うんです。昔は、布田さんの歌があって、白糸小学校の、もう廃校になりましたが、校歌として歌いよった。通潤橋では、子ども時分はじゃぶじゃぶ水遊びをしていました。裸で吹き出し口に入ると、水が噴き上げますから、手を動かさなくても向こうまですーっと移動するんです(笑)」

昭和3年、白糸台地に生まれ、農業の傍ら、通潤橋案内ボランティアで小学生に布田保之助の物語を伝えている村上さん。

村上末春さん

村上さん:「明治22年までは、白糸台地は、南手八ヵ村と言いよったですよ。明治22年の町村制で白糸村となり、昭和30年に矢部町と合併して、矢部町になりました。そして、平成17年にまた合併して山都町になった。平成18年に疎水百選に入り、平成22年に重要文化的景観の指定を受けました。棚田には、よく写真愛好家の方が撮影に来られますね」

「知恵をまわして」水不足を解決

通潤橋により白糸台地の田んぼには、水が行き渡りました。それでも、水不足の年はあるそうです。 水不足に対しては、ルールや制度で解決して来られたそうです。

村上末春さん

村上さん:「10年ないし15年おきに、極端な水不足があります。日照りが続けば川の水が減ります。いまはU字溝ですが、昔の水路は土を掘っただけで、水不足のときには乾いて真っ白になりました。対策としては、まず『くちがけ』と言いまして、水が田んぼに100%行かないように、水口を3割程度閉じるんです。昔は配水係長という方がおり、非常に強い権限を持っていました。 測らずに、自分の独断で、『こういう状態であれば3割くちがけ』『半分くちがけ』と配水係長が決めよった時代があったんですよ。人格者でないとだめだけどな(笑)」
※注:くちがけは、水口を欠けさせるという意味だと思われます。
水門を開ける村上さん
記念碑に彫られた名簿の肩書
記念碑に彫られた名簿の肩書

村上末春さん

村上さん:「それでも足らない場合は、時間給水になります。『この地区が水を引くのは何時から何時まで』と決めます。『こっちは昼、こっちは夜に水をとる』と決めるのを『昼夜引き』と呼んでいました。水は、稲に必要になる以前に、田起こしにも、代掻き(しろかき)にも必要です。昔は、上流の田んぼから代掻きをして、だんだんに下流に代掻きをすると、最後の方、下流には水が行かずに代掻きができないという事態がありました。それを防止するために知恵をまわして、いまは下流の田んぼを持っとるもんから代掻きをしよるんです。
農業はな、全部大変(笑)。四角い田んぼであれば仕事もしやすいけれど、曲がった三日月型の田んぼは苦労する。でもいまは、棚田であろうともトラクタが入りますもんね、楽になった。その前は手押しの耕耘機」
トラクタ
棚田

村上さんは通潤橋案内ボランティアもされており、農繁期であっても、小学校の遠足で生徒が来る場合は、農作業の合間をぬって案内されるそうです。

村上末春さん

村上さん:「9月に入ったら一日に何百人も来ます。9月から11月にかけて県内中から子どもたちが来ます。橋の上では説明はせず、手すりが無いので気をつけるように厳しく言います。手すりは無いですが、156年間で落ちた人は一人もおらんとです。案内係はたくさんいますが、説明係は私一人なんですよ」

もしかすると、熊本県の小学生のほとんどが、村上さんのことを知っているのかも知れません。

村上末春さん

村上さん:「矢部のお米の特徴は、第一に味がええということですね。これはもう、どこに持って行っても天下一品ですよ。矢部で生産したヒノヒカリは、美味しいですよ。イチゴも美味しいし、花も、矢部の高山で作ったやつは、素晴らしい。色彩が濃いっちゅうかね。私たちは通潤橋の恩恵を受けているんですけれども、やっぱりその関係でしょうかね。阿蘇からの清らかな水がそのまま流れて来ますから」

豪快な放水が魅力、観光としての通潤橋

水田を歩く人

重要文化財の指定を受け、通潤橋の知名度は全国的なものとなり、その美しい佇まいと豪快な放水の魅力とが相まって、観光地としても人気を博しています。再び、通潤橋史料館・アドバイザーの石山さんに伺いました。

石山信次郎さん
石山信次郎さん
通潤橋史料館・アドバイザー
山都町の石橋を守る会

石山さん:「重要文化財になってから、人がたくさん来るようになったため、土を入れて、人が登れるようにしました。でも、手すりはつけられていません。形を残すためです。これまでも、割れた石管以外は修理しておらず、当時の姿のままです」
石管
通潤橋の様子

通潤橋に欄干が無いのは、保之助が橋を少しでも軽くしたいと考えたからでしょう。また、人気の放水はもともと、連通管原理を応用するためにU字型になっている石管の底に沈殿した土砂やごみを放出するためです。これも保之助が設定したものです。豪快な音と水しぶきが観光地として人気を博することも、保之助の計画に入っていたのでしょうか。いまも通潤橋を見つめる保之助翁の像に、心のなかで問いかけても、黙って微笑んでいるだけでした。

通潤橋では毎週土曜、日曜日と祝日の正午より観光放水が行われます(※1)が、田植えや水不足の時期には中止しています。詳細は山都町の公式サイトをご参照ください。
https://www.town.kumamoto-yamato.lg.jp/

※1 2019年12月現在、2016年に発生した熊本地震による影響を調査・復旧するために観光放水は中止しております。

熊本自身による影響
保之助翁の像

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