
愛媛県西予市宇和町は、2000年以上前から米作りを続けてきた地域です。古くから水不足に悩まされていましたが、溜め池の水路網を張り巡らせるなどして対策をしてきました。米どころの伝統を受け継ぐべく努力を惜しまなかった宇和町の人々の、米作りに懸ける思いに迫ります。
水不足の街にできた「水番制」


南予の米どころ宇和盆地。農業用水は溜め池が頼りの地域で、水路のネットワーク末端に位置する西予市宇和町は長年、水不足に悩まされてきました。
宇和米博物館に掲示されている年表には次のような記述が見られます。
嘉永六(1853年)七月
旱魃で、久枝村馬場において雨乞い千人踊りを行う。
明治六(1873年)夏
干ばつ甚だしく、雨乞いが行われる。
(左の写真にあるイラストは大正7年、名古屋での「米騒動」の様子です。米騒動は全国に飛び火したと伝えられています)
宇和町の農業用水の主要水源「関地池」は、溜め池の規模としては県下第2位。寛永21年(1644年)に築成され、昭和37年(1962年)に現在の規模に拡張されて、約100万トンの水を溜められるようになりました。それでも、流域の広大な田んぼが水を必要とし、宇和町まで届く水は不足がちでした。 そこで「水番制」をしいて、干ばつの被害を回避してきました。
西予市教育委員会で宇和米博物館を担当されている鈴木友三郎さんに、宇和町の水事情や歴史についてお話を伺いました。

鈴木さんはこの地の農家に生まれ、大学時代は考古学を専攻されていたそうです。
鈴木友三郎さん
西予市教育委員会
縄文の後期あたりの土器も出てきます。少なくとも弥生時代からは確実に米作りをしています。おそらく九州北部あたりから、かなり早い時期に、さまざまな文化とともに米作りが伝播して来たのでしょう。標高は230mで、黒潮が流れ込む宇和海とは標高400m程の山で隔たり、温暖ではありますが、春は水田、夏は青田、秋は黄金色の田、そして冬には雪景色も見られます。関門海峡から北風が入ると、ここでは雪が降るので、『雪とわらぐろ』の美しい景色が見られる地域です。同じ愛媛県でも、松山などの瀬戸内気候の場所は雪が降らないので、遠方から多くの方がカメラを構えて雪景色をわざわざ見に来られます」
標高が高くて川が少なく、山からしみ出してくる水で溜め池を作らないと、水そのものが不足する地域だったようです。
水不足のおそれがあると地区の寄り合いを開いて「水番制」を実施したそうです。それぞれの田んぼに水を割り当てる、重責を担う「水番」には、信頼の厚い人物が選ばれたそうです。
町並みを残す、伝統的建造物群の保存活動


宇和町卯之町は重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。保存地区は約4.9ヘクタールで、江戸時代中期以降の町家が混在した町並みが残る中町通りや、四国最古の小学校で、重要文化財の開明学校(写真右)などがあります。


二宮敬作は、シーボルトの高弟。江戸時代末期の蘭学者・医学者で、薬草の研究に業績を残しました。日本初の女医となったシーボルトの娘・楠本稲を養育したことでも知られています。
シーボルト事件は、文政11年(1828年)、シーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外持ち出し禁止の日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方ほか十数名が処分された事件です。シーボルトは国外追放、再渡航禁止となりました。


宇和米博物館の実験田


宇和町では伝統的建造物群保存活動と平行して、この地の米作りの伝統文化を継承していくために、宇和米博物館を開設しました。旧宇和町小学校を移築保存したレトロな博物館で、109mの廊下があります。 米作りについての博物館で、国内外の稲の標本やお米の歴史、農具の変遷等がわかる展示を行っています。


宇和米博物館のユニークな挑戦が、この実験田から発信されます。

