室町・戦国・安土桃山・江戸時代

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農民の管理組織が発達してきた「室町時代」から、自給自足文化から商人文化へと変貌を遂げた「江戸時代」まで、お米をめぐる権力争いと統制の歴史を紹介します。

農民が団結して一揆を起こし始めた「室町時代」(1336年~1467年)

室町時代になると治水技術の発達とともに管理組織も発達し、寄合・村掟が強固になっていきました。農民の自治組織である惣(そう)が発達し、農民が荘園という枠を超えて団結。力をつけて大規模な一揆を起こすようになりました。
1428年(正長元年)に起こった正長の土一揆がその代表的なものです。一揆は続発して大規模化していき、幕府の力は衰えていきました。

また、室町末期に始まった治水と新田開発の事業により、日本中の川は作り変えられ、不毛の土地を緑の沃野(よくや)に変えていきました。田植えの合間に笛や鉦(かね)、太鼓にあわせて踊り、歌う田楽(でんがく)が広く社会に浸透していきました。

大名が領土を拡大し、田んぼを守る工事を始めた「戦国時代」(1467年~1574年)

応仁の乱後、大名が入り乱れて争う戦国時代になると、戦国大名は自分の領土をいかに拡大し、いかにお米の収穫量を上げるかに腐心しました。農業を奨励しながら、農民の自治組織である「惣」の解体に力を注ぎ、農民から武力を奪いとって、一部の農民を家臣としていきました。「自然村」を「行政村」に切り替えていったのです。

また、お米をより多く収穫するには、荒れ地開発を奨励して田んぼの面積を増やし、田んぼを水害から守らなければなりません。そのために戦国大名は、田んぼを守る工事を始めるようになりました。 甲州の武田信玄は、1542年(天文11年)に起きた釜無川の大洪水の後、今も残っている有名な堤防である「信玄堤」を築きました。「信玄堤」の特徴は、川の流れに逆らわず、各種の造形物で勢いを弱めることによって堤防の決壊を防ぐというものです。
肥後の加藤清正は「乗越堤」という方法で、田んぼを水害から守りました。これは低い堤防で水の勢いを弱め、水がおだやかに堤を越えていくという方法です。

太閤検地によって土地制度が大きく変わった「安土桃山時代」(1574年~1603年)

新田が開発され、新たな村ができ、農家戸数も増える中、戦国大名たちは自己の領地で田畑の調査を行っていました。それを統一して全国的に行ったのが豊臣秀吉の太閤検地(たいこうけんち)です。
1582年(天正10年)、太閤検地によって全国の土地、収穫量、年貢量などを定めて記録し、さらに「一地一作人」の原則を定めました。それまでの荘園制では、農民と領主の間に荘官や地頭、守護など、土地に権利を持つ者が幾重にも入りくんでいたのですが、秀吉は中間搾取を排除して、その土地の年貢はその土地を耕す農民自身に受け持たせることとしたのです。土地台帳に農民の名を記し、農民の自立心を促して、同時に富の集中をはかりました。
古い荘園制の名残をとどめていた土地制度は、太閤検地によって大きく変わることになります。

大規模な新田開発が次々と行われた「江戸時代」(1603年~1868年)

江戸時代も経済の中心はお米でした。生産されたお米は年貢として納められ、大名はこれを大坂や江戸で売って収入としていました。
大名がもつ領地の広さは石高(こくだか)で表され、一石は約180リットル(約150kg)で、1人が1年間に食べるお米の量にあたります。

江戸時代に入ると、他の国に攻め込んで領土拡大をすることができなくなり、大名たちは自分の領地で水田を増やすようになりました。このため、江戸時代初期にはそれぞれの領地での新田開発ブームが起こります。工事は大規模化し、平野が広がりました。
徳川幕府も大規模な開発を行いました。たとえば関東平野の台地をひらいた武蔵野新田、下総国(しもうさのくに)の沼を干拓した飯沼新田などです。
また、東京湾に注いでいた利根川を徐々に東に向かわせ、千葉県の銚子へと流れを変えてゆき、常陸川に合流させて、太平洋に注ぐ川に変える大工事も行いました。

また、江戸幕府は農民を厳しく統制しました。お米が社会の土台であったからです。
1643年(寛永20年)には田畑の売買を禁止する「田畑永代売買禁止令」を、さらに1673年(延宝元年)農地の分割相続を制限する「分地制限令」を出しました。そして農民支配に対する幕府の姿勢を総合したものが、1649年(慶安2年)、3代将軍家光のときに出された慶安の御触書です。これは五人組の制度をはじめ、農民の生活まで細かく規定したものでした。
農民はほぼ50~60戸で1村落を作りました。村はしだいに行政組織となり、村の有力者を村役人に命じて行政を担わせました。それが名主(なぬし)・組頭(くみがしら)・百姓代(ひゃくしょうだい)で、この3つを村方三役と言います。

稲の品種改良が進んだのも江戸時代です。民間の篤農家(とくのうか)が、たまたま冷害のときなどに田んぼで元気に育っている数少ない稲を取り上げて、それを何年間も繰り返し栽培していったのです。新品種はお米の収穫量を増大させました。
各種の農機具も開発されました。扱竹(こきたけ)という、竹を箸のようにした道具に替わって千歯扱き(せんばこき)が発明されました。千歯扱きはその作業効率を10倍以上も高めたことから、瞬く間に全国各地に普及していきました。農民たちは、つねに効率の良い農機具を追い求めていたのです。
他にも耕作のための備中鍬(びっちゅうぐわ)、お米を選別する唐箕(とうみ)・千石どおし、田畑に水を引くための龍骨車(りゅうこつしゃ)、足で踏んで水車を動かす踏車(とうしゃ)などが発明されました。
さらに、肥料も変化していきました。江戸時代に入り、江戸、大坂、京という大都市が生まれたことで、都市周辺の近郊農業が必要となりました。農民たちは農産物を都市にもって行き、帰りは糞尿を持ち帰って肥料にし、リサイクルしていました。他にも油かす、汚水、緑肥、堆肥、泥肥、魚のあらなどが使用され、とくに干し鰯は動物性の肥料として抜群の効果をもたらしました。

しかしながら、長い鎖国のせいもあってか、災害や害虫に対する知識は不足しており、虫送りや鳥追い、風祭り、雨乞い(あまごい)という行事で無事を祈るしか方法はありませんでした。そのため災害による凶作の年も多く、江戸時代には150回ほどの飢饉(ききん)があり、そのうち大飢饉は30回も発生しています。その結果、農村は荒れ果てて、農民の都市への流入が激しくなりました。

・亨保(きょうほう)の飢饉
1732年(亨保17年)夏に長雨といなごが大発生したことによって起こり、西日本一帯でお米の収穫量が平年の15%しかありませんでした。全国で264万人以上の人が飢え、1万人以上の人が餓死したと伝えられています。

・天明(てんめい)の飢饉
1783年(天明3年 )の霜の害によって起こり、数年間続きました。この飢饉によって餓死した人の数は、全国で50万人以上にも及んだと言われています。

・天保(てんぽう)の飢饉
1833年(天保4年)に冷害、洪水、大風雨などが原因となり、1836年(天保7年)頃まで続きました。農村では百姓一揆が続き、都市でも貧しい町人たちが、米屋・質屋を襲う打ちこわしが起きましたが、幕府や諸藩にはこれらを完全におさえる力がありませんでした。幕府の衰えは、誰の目にもあきらかになりました。

飢饉が起こった一方で、農業の発達とともに商品作物の生産が増加したのが江戸時代です。それにともなって商業や交通が発達してくると、しだいに貨幣が重要な役割を果たすようになり、商人が力をもってきました。商人はお米の相場を決めて、経済を支配しはじめ、日本の文化は町人文化に移っていきました。
また、江戸時代の終わり頃になると、人々を工場に集めて、水車などの動力を使う工場制手工業(マニュファクチュア)があらわれるようになりました。
このようにして農村の自給自足経済は崩れていき、また、それを土台とする封建社会そのものも揺るがされていったのです。

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