農業技術が発展した「明治時代」から、戦争によって機械化が進んだ「大正時代」「昭和時代」、そして農業人口の減少という問題に直面する「平成・令和時代」まで、米作りを基盤として発展してきた日本の歴史を振り返ります。
農業技術が発達し、お米の収穫量が激増した「明治時代」(1868年~1912年)
江戸時代は多くの藩に分かれ、藩と藩の境の壁は厚かったといわれていますが、農民たちの生き方には共通するものが多く、これが明治の統一国家が比較的容易に成立した基盤となりました。
明治新政府は財政の基礎を固めるために土地所有権を確立し、税をお米からお金に変えました。これが、 1873年(明治6年)に行われた「地租改正(ちそかいせい)」で、土地の私有権と売買を認め、地価の3%の税金を課しました。
一方で明治新政府は、農業技術の革新にも注力し、農業技術や農学を学ぶ目的で学者や技術者を欧米に派遣し、欧米の技術者を日本に招きました。1893年(明治26年)には国立農事試験場が開設されています。
稲の育種について見ると、大正年間の純系淘汰(優れたものを選抜して残していく)によって収穫量は5~10%増加しました。更に中期からは交雑(品種のかけあわせ)による育種が試みられました。
民間では老農といわれる育種家が各地に現れました。交通の発達にともなって、他の地方から稲の種を持ち帰ったり、交換を行ったりして意識的に変り穂を探しだし、その中から優秀なものを見つけ出して新しい品種を作りました。(技会資料より)
化学薬品を使った最初の除草は、明治時代の中頃に行われています。欧米の各地で、銅の化合物に除草効果があるということが発見されると、それが日本にも伝わり、田んぼでも使用されるようになったのが始まりです。
同じく明治時代の中頃に画期的な雑草取りの農機具が発明されました。田車というもので、先端には幅30cmぐらいの、小さな水車のような回転する筒がつけられていました。それを使うために、稲は幅30cmの間隔でまっすぐ平行に植えられるようになりました。稲をまっすぐ植える正条植えという植え方が日本中に普及しました。
第一次世界大戦を背景に、農業の機械化が進んだ「大正時代」(1912年~1926年)
1914年(大正3年)に勃発した、第一次世界大戦とそれにともなう好景気は、国民の生活を大きく変えました。農村では好景気のなかでお米が高値になり、地主層は景気が良くなりました。一方、土地を持たない人々が都市に出て労働者になるケースが増えました。そのため、東京をはじめとする大都市では人口が急増しました。
この頃から、人力で動いていた農業機械が電気や石油を使った動力で動かされるようになっていきます。田んぼの水の揚水と排水をはじめとして、脱穀作業、籾すり作業、精米作業、製粉作業、藁の加工作業などは、次々と機械化されていきました。
ところが、1918年(大正7年)夏、米騒動の嵐が全国で吹き荒れました。
物価全般の上昇に加えて、シベリア出兵にそなえて商人たちがお米の買い占めを行ったため、お米の価格は上昇。富山県では、お米の値上がりに対しての暴動が起こり、全国に拡大します。お米は主食としてなくてはならないものでしたから、この値上がりは人々の生活に直接かかわる問題でした。米騒動は9月中頃まで続きました。
第一次世界大戦が終わったのは1918年(大正7年)。それ以降、人件費の高騰や、戦争によって男手が召集されてしまったことなどが遠因となって、「農業の機械化」は国としての大きな目標になっていきます。そのため畜力や電力を使った機械が開発されるようになりました。
お米の生産が拡大、お米をいつでも食べられるようになった「昭和時代」(1926年から1989年)
1933年(昭和8年)頃、動力によって田んぼを耕す動力耕うん機が実用化されるようになりました。しかし、太平洋戦争により石油資源が極端に不足したため、動力耕うん機は多くの農家が憧れていながらも普及するには至りませんでした。
1942年(昭和17年)には、「食糧管理法」が制定されます。戦争で食糧不足になったため、お米などを国家管理にしたのです。これによって農家はお米を差し出し、人々は配給を受けることになりました。
第二次世界大戦の終戦をむかえた1945年(昭和20年)、戦争で国土は荒れ果て、労働力は不足し、日本のお米の生産高は約587万トンに落ち込みました。お米が足りなかったことから、都会に住む人々は食べ物を求めて農村に買い出しに出かけました。
1955年(昭和30年)以降は、工業の発展にともない、農業水利の改良、ほ場整備事業が進みます。新しい栽培技術も展開されたことによって、お米の収量水準は向上しました。機械化の普及と相まって、水田経営は規模拡大の方向に見直されるようになります。
農業の機械化のなかでも、田植機は明治時代から多くの人々が身代を投げ打ってその研究をしてきました。しかし、どの田植機も長さが30cmくらいある昔ながらの大きな苗、成苗を使っていたため、うまくいきませんでした。
しかし、1965年(昭和40年)前後に、現在のような10cm程の苗、稚苗(ちびょう)を植える田植機が登場し大成功をおさめ、一気に普及します。農家の何百年にわたる悲願がここに達成されたのです。
また、除草剤の使用も一般的となりました。アメリカで開発された2・4-Dという除草剤が瞬く間に日本の田んぼに普及します。これによって夏の炎天下で行われていた、腰を曲げての長時間の除草作業から多くの女性たちを解放しました。
ちなみに、田んぼ10アールあたりの労働時間は、1950年(昭和25年)では207時間でしたが、2015年(平成27年)には23時間まで減少しています。
日本人の主食といわれながら、本当の意味で日本人がお米をいつでも食べられるようになったのは戦後20年も経ってから、つまり1965年(昭和40年)頃からです。その頃は、さまざまな分野で近代化が進み、農業では機械化やカントリーエレベーター(乾燥・貯蔵施設)の登場などによって、米の生産は拡大していきました。
平成・令和時代(1989年~)
現在、日本では農業人口が減少し、農村の過疎化が進んでいます。
こうしたなかで、懸命に農業を続けている人々は、後継者難や都市化による水の汚染などと闘いながら、米作りを基盤にして築き上げられた日本列島の土地・水・緑、そして文化・環境を守っています。
一方で、世界的には食料危機説が再燃しています。世界各地で多発している異常気象や自然災害の影響はもちろんのこと、特に中国をはじめとする、アジア諸国の急激な人口増加や耕地面積の減少・食生活の構造変化などにより、世界の食料事情は逼迫しています。
世界の穀物は、需給緩和の時代から、需給逼迫と激しい価格変動の時代に突入し、食料が戦略商品になる時代がやってくることが懸念されます。
こうした国内外の食料事情のなかで、他のあらゆる時代にも増して、今日ほど農業が高く評価される時代はありません。国際的に見ればそれは、地球環境の守りの主役であり、お手本であり、国内的には、日本の心のふるさとなのです。