飛鳥・奈良・平安・鎌倉時代

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お米を税として徴収した「飛鳥時代」から、田んぼの土地支配が武士になった「鎌倉時代」まで、 稲作の発展によりお米が富と権力の象徴となっていった時代に迫ります。

お米を税として徴収する制度があった「飛鳥時代」(592年~710年)

お米は栄養価が高く生産性に優れ、長期間の保存に耐え、おいしく食べられる食糧でした。そのためお米を基本通貨とし、「税」として納めるという社会が始まります。 飛鳥時代後期より行われた「班田収授の法」は、田地を分け与えるかわりに、収穫した稲を徴収することを定めた法です。
当時は全ての土地と人が国家のものとされていました。大和朝廷は人々に一定の田=口分田(くぶんでん)を与え、籾米(もみごめ)で租(税)を納めさせました。口分田は売買を禁じられていました。

また、この時代の農具は、田んぼを耕すことが目的のきわめてシンプルなものがほとんどでした。穂を刈り取るのではなく、現在のように根っこの部分を刈り取るやり方が一般的となり、そのための農具として鉄製の鎌が普及していきます。

田んぼを増やすための開墾が進んだ「奈良時代」(710年~794年)

奈良時代における国家の繁栄はめざましいものでしたが、粗・庸・調や労役の負担に苦しむ農民のなかには、口分田や家を捨てるものが増えてきました。また人口も増加したので、722年(養老6年)、朝廷は田地を増やすために百万町歩開墾計画を立て、723年(養老7年)には、三世一身法を出して開墾をすすめました。
さらに、743年(天平15年)の墾田永世私財法によって、開墾した個人が田を永久に所有できることになりました。これは、律令制度の土地公有の原則を破る重大な改革でした。この結果、有力な貴族や寺社は先を争って開墾を始め、私有地である荘園が広まっていきます。

奈良時代には田植えが本格化します。人々は手強い雑草であるヒエと戦いを続けるうちに、水田の雑草を抜いてから、別の場所で大きく育てた稲を植える方法を編み出しました。こうすれば、次のヒエが芽を出したときには稲は大きくなっており、倒伏(とうふく)も少なくなります。
また、農地を広げるために地方への進出が繰り返されました。稲栽培に向かない寒い土地にも、稲作を広げようとしたことから、結果的には寒さに強い品種が開発されました。
田んぼの面積は、現在の3分の1である100万ヘクタールに達していたようです。

国が所有する田んぼが減り、農民が武装していった「平安時代」(794年~1185年)

墾田永世私財法を受けて貴族や寺社が開墾した土地は荘園と呼ばれ、荘園領主は稲作を奨励します。10世紀から12世紀にかけて荘園は増え続け、国家の土地である口分田が減り、政府はしだいに無力化していきました。

荘園の境界をめぐる土地争いや地方役人の税の取り立てから身を守るために、農民は武装をするようになります。ふだんは農業をしながらも、武士となり、武士団をつくって軍事力を養っていったのです。

田んぼの土地支配が、武士へと移っていった「鎌倉時代」(1185年~1333年)

朝廷が地頭を設置して警察権と年貢徴集権を主張するなど、荘園の権利関係が複雑になるなかで、貴族や寺社の支配は弱まり、形式化していきます。そして実際上の支配は、もとは農民である武士(在地領主・開発領主・根本領主)の手中に移っていきました。
お米をもつものは富と権力を持ちました。武士が天下を支配できたのは、この頃の武士がお米の生産者でもあったからです。

鎌倉時代には、お米の生産高も大きく伸びました。領主が税であるお米を早く手に入れようとして、早米を作らせたという記録もあります。
普通の農家でも、牛や馬の力を利用して土地を耕す傾向が見られるようになりました。水田に水を引くために水車が使われ、金属製の鎌(かま)、鍬(くわ)、鋤(すき)などを専門に作る鍛冶も生まれました。案山子(かかし)もこの頃に登場しています。

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