石器・縄文・弥生・古墳時代

石器・縄文・弥生・古墳時代

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稲作が始まった「石器時代」から、農具や水路が発達して広範囲で田んぼが作られるようになった「古墳時代」まで、稲作の歴史とともに日本の成り立ちをたどります。

野生の種子をまき、稲作が始まった「石器時代」(約3万年前)

稲の栽培は、原始時代に野生の稲の種子をまいて収穫したのが、始まりです。
木の木の実や獣、魚、貝をとって食べる時代から、食糧を生産する時代へと大転換を果たし、人々は一定の土地にとどまるようになりました。

中国から稲作が伝わった「縄文時代」(約1万2,000年前~2,500年前)

今の「日本のお米」であるジャポニカ米の栽培は、中国大陸の長江の中・下流域で始まったとされています。稲作の日本への伝来と伝播には、インド・アッサムや、中国・雲南の山岳地帯で始まった稲作が
・長江に沿って東へ進み、やがて朝鮮半島を経て西日本に上陸した。
・長江下流から北九州の対馬を越えて直接海を渡ってきた。
・台湾を経由し島伝いに来た。
・朝鮮半島から直接日本海沿岸にたどり着いた。
などさまざまな説があります。アジアの稲作圏に最後に仲間入りした日本へは、一つではなく複数のルートで伝来したのかもしれません。
日本に上陸した稲作は、各地に広がって定着していきます。それは余剰を生み出す社会の始まりであり、日本という国家の始まりでもありました。

国内に稲作が広まり、「日本」が形成された「弥生時代」(紀元前5世紀~紀元後3世紀半ば)

弥生時代中頃には、東北地方の北部まで稲作が広がっていたと思われます。
1943年に静岡県で発見された登呂遺跡の弥生水田は、矢板や杭で補強した畦(あぜ)できちんと区分され、用水路や堰(せき)も整備されていました。12戸の竪穴式住居の跡のほかに、約7万㎡の田と、2つの高床式倉庫の跡が発見されていることから、美しい農村風景が見られたようです。

弥生時代の農具のほとんどは、カシ材を加工した木製品です。木鍬(きくわ)・木鋤(きすき)などを使って田を耕し、干し草などの肥料は田下駄(たげた)や大足(おおあし)によって田んぼに踏み込まれました。
籾(もみ)は田んぼに直にまかれ、稲が実ると石包丁で穂先だけ刈り取りました。脱穀(だっこく)には、木臼(うす)と竪杵(たてぎね)などが使われ、穀物は貯蔵穴や高床式倉庫に保管されました。

お米は貯えることができたため、その貯えの多さによって、貧富の差が生まれました。また、農業に必要な治水、灌漑(かんがい)などの共同作業のために村ができ、それを統率する首長があらわれました。
村同士は戦ったり、協力したりしながら、より大きな村になり、やがて小さな国になっていきました。
紀元後3世紀の日本には30の国があり、最強の国が女王・卑弥呼(ひみこ)が統率する邪馬台国(やまたいこく)だったと伝えられています。
国々はやがて統一されて「日本」という大きな国がつくられていきます。お米は日本の社会の基礎となりました。

水路の整備が行われ、広範囲で田んぼが作られた「古墳時代」(3世紀半ば~7世紀半ば)

田んぼの生産力が上がり、食糧が安定して供給されるようになると、社会が発達して各地に豪族が生まれました。古墳時代の水田に牛の足跡が残っていることから、家畜を利用した農作業が始まり、それにともなって馬鍬(まぐわ・マンガ)や中国の華北地方の犂(すき=カラスキ、長床犂)も伝えられたようです。また、九州北部を中心に鉄製の穂摘具(ほづみぐ)や鉄鎌もあったようです。

一方で、当時の人々の脅威となったのが洪水です。お米が実った田んぼで洪水が起こると、その後の1年間、食糧が不足します。そこで豪族たちは鉄器を活用して、灌漑用の溜め池を掘らせ、水路の整備も広範囲に行いました。そうして、川からずいぶん離れた平野や盆地にまで、田んぼが作られるようになったのです。後に豪族たちはこの土木技術を応用して、古墳を作ります。
やがて、豪族たちの小さな国が統一されて大和朝廷となり、今の日本の基礎ができました。

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