創業者ストーリー

語録集

創業者ストーリー
久保田権四郎 語録

久保田権四郎は貧しい農家の三男として生まれ、わずか15歳で単身大阪へ出て鋳物の修業を始めます。どんな逆境の中でもあきらめることなく、「必ずできる」の信念でさまざまな発明を生み出していきました。
現場の経験に裏打ちされた確固たる想いは、同時にその現場を客観的に捉える視点も忘れず、ぶれることがありませんでした。より高度な学術を目指す探究心、製品を手にする人々への想いにあふれる権四郎の人生訓は、どれもやさしい語り口で、多くの人々を突き動かしてきたのです。

健康

最も大切なことは健康であります。之れ無くしては何事も云ふべくして行ひ難いものであります。自分で事業を独立経営しやうとも、又他所に勤めを仕様とも健全なる身体を以て辛抱し通す意気があれば成功疑ひなく重宝がられ可愛がられるものであります

解説

権四郎の想いと仕事への熱量を支えたのは健康でした。どんなに立派な知識をもっていても実行しなければ何も起きません。ところがこの実行という行動がなかなか難しい。その推進力として身体を鍛錬し備えるのが重要なのだと権四郎は説きます。また同時に、その健康は目の前に与えられた仕事に興味をもって打ち込むことで改造できるとし、「仕事を楽しむは健康と能率増進の基」と題する講演も行うなど、仕事への向き合い方と健康との相互作用にも着目しています。

機会は自らつくれ

「ある休みの日に、誰もいない仕事場の戸をこっそり開けて忍び込み、朝から夕方まで飲まず食わず、一生懸命で、我流の鋳型を作り上げ、わざと師匠の目のつくところへソッと置いておきました」「機会は待たねばならぬ、しかし自己の手でその機会を作り出すということも必要です」

解説

権四郎の鋳物修業は、子守や掃除、使い走りからのスタートでした。なかなか仕事をさせてもらえない日が続きます。それでも諦めずに師匠や兄弟子たちの背中をみて仕事を覚えようと努力するうち、与えられないなら自分の手でつくって認めてもらえばいいと思いついたのです。実際、この我流の鋳型は師匠の目にとまり、感心なことだとほめられて仕事場へ入るのを許されました。置かれた環境を言い訳にせず、自らができることを探して、道を拓いたのです。

現場主義

ある時ふと思いついて、師匠や先輩の物腰や手先の動き呼吸等をすべて読み取ることにし、また休日にはひそかに仕事場へ忍び込んで真似事をしてみたりしているうちに、だんだん形ができるようになりました

解説

権四郎の発想や技術は、常に現場で育ち、鍛えられました。現場こそが問題解決の源泉と考え、自らも現場を離れることはありませんでした。また、学卒の技術者に対してもまずは現場に出て経験を積み、技術へ活かすよう求めました。一方で、権四郎は現場主義の限界も心得ていて、海外の新しい技術や学術を積極的に吸収するときは技術者の視点を尊重しました。ふたつの視野をもつ技術観が、数々の商品化や発明を生み出していったのです。

熱意と努力

「先づ第一に我を忘れて其の仕事に魂を打ち込むこと」「張り切った気持で楽しく仕事をすれば苦労は苦にならず、仕事に興味もわき、能率も上り、技術も進み、そこに良い発明など出来る」

解説

水道鉄管の製造に着手したころは、国内での経験者も文献もなく、すべてが手探りでした。鉄管は均一な厚みでなければ水圧に耐えられません。あまりの困難さに国内の競合企業が次々に手を引くなか、権四郎はひとり研究に打ち込みます。この熱意と努力は修業時代から変わりませんでした。何日も苦しんで考え抜いた後やっと形がみえたときの喜び、新しい工夫や考案を試すごとに手応えを感じる面白さ。アスリートが挑戦するような探究心と集中力で、発明や開発を続けていきました。

「必ずできる」の信念

やってできないことがあるものか、と夜も昼もなくやっているうちに、熱心は恐ろしいもので、とてもできないと思われていたものができてきたから不思議です。必ずできるという信念の前には何ごともできる。この仕事がどの位勉強になったかしれません

解説

必ずできるという信念こそが成功と落伍とを分かつと権四郎は説きます。できるかどうかわからないがやってみようという気持ちではすでに仕事に負けている。強い信念で臨むことにより、不安やけん怠、不平不満や失望といった心の敵を排除し、困難の先を越えていけるのです。手探りで始めた水道管事業が、後に世界的な鉄管検査技師をして「日本にこんな技術があるとは」と言わしめたほどの実を結んだのも、すべてこの「必ずできる」という信念と努力の賜物でした。

良い事は直ぐ実行

およそ一業に志す者にとって、最も大切なことは何かというと、良いことは直ぐ実行するということでしょう。いかに良い話を聴き、いかに立派な理論を知っていても、これを実行しなければ何にもならない。ところがこの実行ということがなかなか難しいのです

解説

昭和12(1937)年、「実業道を語る」というラジオ放送の冒頭で権四郎は、実業を志す者にとって最も大切なのが「何事でも良いことはすぐに実行すること」と断言しています。権四郎は、修業時代から周囲の様子をよく読み取り、目と心を働かせてどんなことでも自分の中に取り込み、すぐに試してみました。鋳物や鋳鉄管の新技術開発の際も、外国や他社からの技術導入や特許・製造権の購入など、何でもためらわずに採用し、実用化につなげていきました。

顧客主義

個人としてはよい物を安く造るといふやうな勤勉の道であります。少し押し廣めて社会的には薄利多売、買ひ手を喜ばせる共存共栄の道であり、徳義信用の相互扶助の道であります

解説

実業道に関する講演を行った際の結びのことばで、権四郎の徹底した現場主義が、商品を手にする人々への想いに支えられていることをよくあらわしています。実際、権四郎は買い付けを行う社員に少しでも安く仕入れるよう指示していたといいます。事業はもうけさえすればよい、自分の金を自分で使って何が悪いという風潮もありましたが、権四郎は利益の大半を工場や設備、技術改良に充てて、お客様ひいては社会への還元を図りました。

仕事に感謝せよ

仕事に感謝することです。興味を持つことです。興味が出て面白くなるまでやり抜くことです。世の中につまらないという仕事は絶対にありません。仕事が人間を磨き修養を積ませ、経験を豊富にしてくれるのです

解説

権四郎は、修業当初なかなか鋳物づくりをさせてもらえない期間が続きましたが、そのときでもつまらないことを押し付けられたと投げ出さず、どんな仕事にも興味をもち、工夫してやりぬきました。この経験が後の鋳物事業を発展させる原点となっていきます。また権四郎は、鋳物という職が機械より軽視されていることを憂慮していました。鋳物の発展が日本の重工業を支え国家に貢献するのだと、大阪大学の産業科学研究所へ寄付も行っています。

与えられた仕事に忠実たれ

およそどんなつまらないと思われることでも、これを熱心に忠実に励めば決してばかばかしいという気は起らないものです。ここに興味も出てくるし、他日を期する修養の一つともなるのです。ばかばかしいと思ったり不平が出たりするのは、まだ仕事に成り切っていないからです

解説

修業を始めたときに出された指示は、鋳物に無関係の子守と掃除と使い走りでした。わざわざ大阪に出てきたのにとがっかりしたものの、気持ちを切り替え、どうやったら子どもが機嫌良くなるか、もっときれいにできないか、早く用事を済ませる方法はと工夫を重ねます。熱心にやってみれば興味もわいてきて、さらに試したいこともでてきます。この姿が周囲に認められ、かわいがってもらえたのです。陰日向なく懸命に力を尽くすことが重要だと権四郎は語ります。

事業道~世の為、人の為~

常に『自分の魂を打込んだ品物を作り出すこと、又其の品物には正しき意味に於ける商品価値を具現せしむること』此二点に全精力を集中することが私の天職であり、又之が職業を通じて国家に尽す道であると云ふ信念を以て、業務に没頭致して参り今日に及んだ

解説

創業50周年の式典で権四郎が語ったことばです。信念と努力で困難を形にしていく姿勢と徹底した現場主義が、人々の暮らしへの想いや社会課題の解決を原点とする権四郎の事業観を端的にあらわしています。また、このとき権四郎は、従業員の福利厚生のため、生活必需品の廉価供給、冠婚葬祭時や不慮の災害時の低利貸付などのしくみをつくりました。これが戦後発足した「久保田厚生組合」へとつながっていきます。働く従業員への想いも熱い権四郎でした。

研究に新境地を拓け

未知の世界は無限に広い。まっ裸で飛び出す勇気が必要です。学理以上の未知の世界へ新しい学理を打ち樹てることが必要です。学理以上のことを、実際に仕事が教えてくれるのです。理屈はそれからのことですよ

解説

やってみなければ始まらない。すぐに実行せよと語る権四郎は、着想が実現化するまでの道のりで最初の想いや考案は全体の2割、3割に及ぶと言います。残り7、8割の実現化に向けた努力の重要性は言うまでもないながら、はじめの一歩を踏み出す勇気も相当なものです。また権四郎は、高等教育がもたらす視野の狭さや硬直性が研究開発のつまずきになると警告します。権四郎は、柔軟性と創造性を与える現場へ信頼を置きつつ、より高い次元へと技術を引き上げる学校教育への尊敬の念も併せもつ複眼の心で、数々の発明と事業展開を行う実業家であり続けました。

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