昭和15(1940)年に挙行された創業50周年記念式典で、70歳を迎えた権四郎は「常に『自分の魂を打ち込んだ品物を作り出すこと、又其の品物には正しき意味に於ける商品価値を具現せしむること』此二点に全精力を集中することが私の天職であり…」と挨拶し、モノづくりに情熱を燃やし続けてきた自らの人生を振り返っている。
また、50周年に因んで私財50万円を寄付し、従業員の福利厚生のための「久保田厚生組合」を設立。生活必需品の廉価供給、冠婚葬祭時や不慮の災害時の低利貸付などをおこない、戦後新たに発足した「久保田厚生組合」へとつながっていった。
工場設備の被害や流用組織の破壊など第2次世界大戦による被害は大きく、戦後すぐの生産高はピーク時の半分以下、人員は10分の1に激減した。権四郎は従業員の安否を気遣いながら戦後復興への意を新たにし、鋳物や鋳型、工作機械、そして鉄管と、順次生産を再開していった。
さらに昭和22(1947)年には耕うん機の1号機が完成。本格的な普及は昭和30年代まで待たなければならなかったが、戦後の事業を支える新しい柱が誕生することになった。
こうしたことから権四郎は企業再建整備の見通しがついたと判断し、昭和24年2月に社長辞任を表明。第2代社長には長男の静一が就任した。
昭和34(1959)年11月11日、創業70周年を目前にして久保田権四郎はその生涯を終えた。89歳であった。郷里・因島大浜村の沖を行き交う船を眺めて「西洋鍛冶屋になる」と誓った日からはるかな歳月が流れたが、この間に得た特許は70件、実用新案は150件以上にのぼり、創業70周年を迎えた昭和35年度の売上高は456億円に達していた。発明家として、また実業家として、まさに完全燃焼した生涯であった。
国家や人々のために尽くした権四郎の功績に対してはすでに紺綬褒章、緑綬褒章、藍綬褒章が授与されていたが、訃に際し、新たに正五位・勲三等旭日中綬章が贈られた。
世間の常識では不可能と思われることでも、国の発展や人々の暮らしに役立つと思えば決してあきらめることなくチャレンジし、並外れた努力と不屈の精神力でブレークスルーしてきた権四郎。そのDNAは、そのまま当社のDNAとなって受け継がれ、権四郎亡き後も画期的な技術を開発し、生きていく上で不可欠な「食料・水・環境」の分野で安心と安全を提供してきた。
現在でも地球上には解決しなければならないたくさんの課題がある。持続可能な地球・社会・ひとの暮らしを実現するために、当社は命を支えるプラットフォーマーとして、社会課題の解決を使命とし、未来を捉え、技術の開発に取り組んでいる。
常に『自分の魂を打込んだ品物を作り出すこと、又其の品物には正しき意味に於ける商品価値を具現せしむること』此二点に全精力を集中することが私の天職であり、又之が職業を通じて国家に尽す道であると云ふ信念を以て、業務に没頭致して参り今日に及んだ
創業50周年の式典で権四郎が語ったことばです。信念と努力で困難を形にしていく姿勢と徹底した現場主義が、人々の暮らしへの想いや社会課題の解決を原点とする権四郎の事業観を端的にあらわしています。また、このとき権四郎は、従業員の福利厚生のため、生活必需品の廉価供給、冠婚葬祭時や不慮の災害時の低利貸付などのしくみをつくりました。これが戦後発足した「久保田厚生組合」へとつながっていきます。働く従業員への想いも熱い権四郎でした。
未知の世界は無限に広い。まっ裸で飛び出す勇気が必要です。学理以上の未知の世界へ新しい学理を打ち樹てることが必要です。学理以上のことを、実際に仕事が教えてくれるのです。理屈はそれからのことですよ
やってみなければ始まらない。すぐに実行せよと語る権四郎は、着想が実現化するまでの道のりで最初の想いや考案は全体の2割、3割に及ぶと言います。残り7、8割の実現化に向けた努力の重要性は言うまでもないながら、はじめの一歩を踏み出す勇気も相当なものです。また権四郎は、高等教育がもたらす視野の狭さや硬直性が研究開発のつまずきになると警告します。権四郎は、柔軟性と創造性を与える現場へ信頼を置きつつ、より高い次元へと技術を引き上げる学校教育への尊敬の念も併せもつ複眼の心で、数々の発明と事業展開を行う実業家であり続けました。