大阪では昔から「商人というものは無限の責任を取るもの」という考えが根強く、大正の初め頃まで株式会社は少なかった。しかし、大正期の好況を受けて税金対策から株式会社に改組するところが増えはじめ、大正後半には大阪の主な商店はほとんどが株式会社に変わっていた。
こうしたなか、権四郎がようやく改組に踏み切ったのは昭和5(1930)年、創業40周年の記念すべき年であり、権四郎が還暦を迎える年でもあった。同年12月22日、久保田鉄工所は「株式会社久保田鉄工所」と「株式会社久保田鉄工所機械部」の2社に改組され、権四郎が初代社長に就いた。
心血を注いだ鉄管鋳造技術の開発に区切りがつき、工作機械の製造など新たな分野に乗り出した頃から、権四郎は若い技術者の養成にいっそう力を注ぐようになった。
その根底にあったのは、自身が黒尾鋳造や塩見鋳物で修業した経験である。「何でもやってみなければわからん。仕事に教えられるのじゃ。学問以上のことを仕事が教えてくれる。理屈はそれからじゃ」というのが権四郎の口癖であった。大正6(1917)年に入社して後に副社長となる田中勘七や、同じく後に常務となる朝倉乗之輔も大学を卒業して入社後の1年間は現場で体験を積まされた。
貧しい少年時代を過ごした権四郎は社会貢献事業に大きな関心を持っていた。明治44(1911)年、世の中は不況の真っただ中にあり、貧しさから教育を受けられない子供が権四郎のまわりにも多くいた。権四郎は自分と同様にこうした状況を憂えている人たちと協力し、「私立徳風尋常小学校」を創立。毎月必要な経費を負担するなど福祉・教育に尽力した。
また、鋳物を基盤に成功してきた自らの経歴から鋳物研究者の苦労に報いたいと考え、昭和14(1939)年、大阪帝国大学産業科学研究所(現・大阪大学産業科学研究所)に50万円の寄付をするなど、研究助成にも積極的に取り組んでいる。
権四郎の郷里・因島の大浜村は交通の便が非常に悪く、隣村へ行くにも自転車や荷車では越えられないほどの急な山坂を歩いて行くしかなかった。そこで村の人々は海岸沿いに道路をつくることを計画したが、資金難から作業は一向に進まない。
そんな話を耳にした権四郎は巨額の道路改修費を負担。1年間の工事を経て大正12(1923)年に念願の道路が完成した。
このほか権四郎は、海岸の埋め立てや道路の造成、自らが通った大浜小学校の講堂や敬老会館の建設など、数多くの事業で郷里の発展に寄与している。
仕事に感謝することです。興味を持つことです。興味が出て面白くなるまでやり抜くことです。世の中につまらないという仕事は絶対にありません。仕事が人間を磨き修養を積ませ、経験を豊富にしてくれるのです
権四郎は、修業当初なかなか鋳物づくりをさせてもらえない期間が続きましたが、そのときでもつまらないことを押し付けられたと投げ出さず、どんな仕事にも興味をもち、工夫してやりぬきました。この経験が後の鋳物事業を発展させる原点となっていきます。また権四郎は、鋳物という職が機械より軽視されていることを憂慮していました。鋳物の発展が日本の重工業を支え国家に貢献するのだと、大阪大学の産業科学研究所へ寄付も行っています。
およそどんなつまらないと思われることでも、これを熱心に忠実に励めば決してばかばかしいという気は起らないものです。ここに興味も出てくるし、他日を期する修養の一つともなるのです。ばかばかしいと思ったり不平が出たりするのは、まだ仕事に成り切っていないからです
修業を始めたときに出された指示は、鋳物に無関係の子守と掃除と使い走りでした。わざわざ大阪に出てきたのにとがっかりしたものの、気持ちを切り替え、どうやったら子どもが機嫌良くなるか、もっときれいにできないか、早く用事を済ませる方法はと工夫を重ねます。熱心にやってみれば興味もわいてきて、さらに試したいこともでてきます。この姿が周囲に認められ、かわいがってもらえたのです。陰日向なく懸命に力を尽くすことが重要だと権四郎は語ります。