明治初期、諸外国から流れ込んできた新しい制度や学問などによって文明開化の花が開いた。しかし一方で、コレラやチフス、天然痘といった伝染病の問題も発生した。政府は水系伝染病対策として水道施設の普及を提唱し、横浜をはじめ函館、長崎、大阪、広島、東京など外国と接触する機会の多い都市で順次整備が進められた。
当時、日本でも水道用鋳鉄管の製造に乗り出す企業はいくつかあったが、技術不足でことごとく失敗に終わり、外国からの輸入に頼るしかなかった。
こうしたなか、権四郎は鉄管製造こそ国益にかなう事業と考え、明治26(1893)年から開発に取り組んだのである。
外国人にできることが日本人にできないはずはないと着手した鉄管製造であったが、行く手には想像以上の困難が待ち構えていた。
単純な円筒形をした鋳鉄管は製造も簡単に思える。しかし実際には、長いものになると厚みのばらつきなどが出てどうしてもうまくいかなかった。しかも、文献や経験者の助言もなく、まったくの手探りで改良を重ねていくしかないのである。
最初は権四郎に協力していた職人の間からも、やがて不平不満の声が聞こえはじめた。しかし、権四郎は自らの信念に従い、決して開発を断念することはなかった。
鉄管開発に向けた権四郎の努力が最初に実ったのは明治30(1897)年、「合わせ型斜吹鋳造法」の開発で口径3~4インチの直管ができるようになった。さらに明治33年には、合わせ目のない鉄管を実現する「立込丸吹鋳造法」を開発。明治37年にはついに、鉄管の量産を可能にする「立吹回転式鋳造装置」を生み出したのである。
しかし、権四郎が鉄管製造に没頭していた明治37年1月、苦労をともにしてきた妻・サンがわずか31歳の若さで亡くなった。妻の枕もとで泣き続けた権四郎は、その悲しみを仕事にぶつけ、画期的な発明を成し遂げたのである。
相次ぐ発明で鉄管製造の基盤が固まると、事業は一気に拡大。各地の水道管はもちろんガス管としても大量に採用され、生産体制の増強が不可欠となった。
そこで、大阪市南区船出町(現・浪速区敷津東)で新工場の建設を開始。明治41(1908)年、1万2500㎡の敷地に各種施設を分業式で配置した最新鋭の鉄管専門工場が完成した。従来の町工場のイメージを一掃する大工場で、当初の人員は約300人、翌年には500人を超え、「鉄管鋳造のクボタ」として広く知られるようになった。
鉄管生産量は明治41年に5000tを記録したあとも急成長を続け、大正元(1912)年には4万tを達成、全国の生産量の約60%を占めるまでになった。
「先づ第一に我を忘れて其の仕事に魂を打ち込むこと」「張り切った気持で楽しく仕事をすれば苦労は苦にならず、仕事に興味もわき、能率も上り、技術も進み、そこに良い発明など出来る」
水道鉄管の製造に着手したころは、国内での経験者も文献もなく、すべてが手探りでした。鉄管は均一な厚みでなければ水圧に耐えられません。あまりの困難さに国内の競合企業が次々に手を引くなか、権四郎はひとり研究に打ち込みます。この熱意と努力は修業時代から変わりませんでした。何日も苦しんで考え抜いた後やっと形がみえたときの喜び、新しい工夫や考案を試すごとに手応えを感じる面白さ。アスリートが挑戦するような探究心と集中力で、発明や開発を続けていきました。
やってできないことがあるものか、と夜も昼もなくやっているうちに、熱心は恐ろしいもので、とてもできないと思われていたものができてきたから不思議です。必ずできるという信念の前には何ごともできる。この仕事がどの位勉強になったかしれません
必ずできるという信念こそが成功と落伍とを分かつと権四郎は説きます。できるかどうかわからないがやってみようという気持ちではすでに仕事に負けている。強い信念で臨むことにより、不安やけん怠、不平不満や失望といった心の敵を排除し、困難の先を越えていけるのです。手探りで始めた水道管事業が、後に世界的な鉄管検査技師をして「日本にこんな技術があるとは」と言わしめたほどの実を結んだのも、すべてこの「必ずできる」という信念と努力の賜物でした。