明治18(1885)年の春、まだ14歳と数カ月の権四郎は、ようやく念願の大阪にやってきた。しかし、そこは権四郎にとってまったく見知らぬ土地であり、また当時の大阪は西南戦争特需の反動と緊縮財政の影響で厳しい不況下にあった。
職を探して鍛冶屋を訪ね歩いても門前払いばかり。軒先で夜露をしのぎ、持っていたわずかな金も底をつきかけたとき、たどり着いたのが西成郡九条村(現・大阪市西区九条)の「黒尾鋳造」である。主人の黒尾駒吉に必死で頼み込んだ権四郎は、子守と掃除、使い走りとしてようやく住み込みを許されることになった。
「黒尾鋳造」で働きはじめた権四郎だが、肝心の鋳物の仕事はさせてもらえず、教えてももらえない。それでも権四郎は真面目に雑用をこなし、たまに仕事場の掃除を言いつけられると喜んで道具や製品に触れ、仕事を盗み見ることで学んでいった。
そんな誠実さと熱意が主人に認められて鋳造の手ほどきを受けるようになると、権四郎の技は瞬く間に先輩職人をしのぐようになった。
3年の年季奉公を終え、お礼奉公も済ませた権四郎は、新たな技術を身につけ、開業資金を蓄えるため、次の職場として日用一般鋳物をつくる「塩見鋳物」へ移っていった。
「黒尾鋳造」を出る際、主人から10円のせん別を受け取った権四郎の全財産は21円60銭だったという。当時、鋳物屋を開業するには最低100円の元手が必要であった。「塩見鋳物」での日給は25銭であり、開業への道は遠い。ところが権四郎は、なりふり構わぬ倹約で1年半後には目標の100円を貯めてしまったのである。
明治23(1890)年2月、権四郎は大阪市南区御蔵跡町23番地(現・中央区日本橋)の古長屋の一隅で「大出鋳物」を開業した。間口2間・奥行4間(約26㎡)の床を落として仕事場とし、こしき炉や足踏式のふいごなど仕事道具一式をそろえて、はかりの分銅や部材をつくり始めた。
権四郎19歳。これが当社の原点である。
せっかく開業した「大出鋳物」であったが、翌明治24(1891)年夏には家主から立ち退きを迫られた。ほこりが立ち、火災の危険もある仕事に長屋の人たちから苦情が出たのである。結局「大出鋳物」は、創業以来5年間で3度の転居を余儀なくされた。この間に名称を「大出鋳造所」と改めている。
鋳物業では設備器具のほか鋳物砂も大切な財産であり、引越しには大変な費用が掛かる。ようやく蓄えた少しばかりの資金は引越しのたびに消えていった。しかし、鉄鋼業界が好況となり、3度目の転居では道路に面して3部屋もある建物を借りることができた。この土地は後に買い取り、西関谷町工場となった。
明治21(1888)年、「黒尾鋳造」でお礼奉公をしているときに父を亡くした権四郎は、以来、母親を喜ばせたい一心で仕事に励んできた。その母親が権四郎の嫁にと思ったのが郷里因島出身のサンである。
サンは鍛冶屋の娘で18歳、明治24年に権四郎と結婚すると夫や弟子たちの食事の世話はもちろん、大八車を引き、ふいごを踏み、身を粉にして働いた。権四郎が以前にも増して仕事に精を出すようになったのはいうまでもない。
ところが、権四郎が3度目の転居をした直後の明治28年7月、最愛の母・キヨが亡くなった。母親を喜ばせることを生きがいにしてきた権四郎は一時ぼう然となったが、やがて気を取り直し、後に事業飛躍の根幹となる水道管づくりに打ち込んでいくことになる。
「大出鋳造所」の得意先のひとつに「久保田燐寸(マッチ)器械製造所」があった。主人はすでに70歳近く、老夫婦に子供はなかった。ある日、用事で店を訪れた権四郎に、主人は養子になってくれないかと持ちかけた。仕事を通じて権四郎の人柄を観察し、この人ならばと考えたのである。
申し出を受けた権四郎はいきなり「お宅に財産はありますか」と尋ね、これといった財産がないことを確認したうえで養子になることを承諾したという。財産のある家に入ったから成功したと言われたくなかったのである。以後、権四郎は久保田姓を名乗り、「大出鋳造所」も「久保田鉄工所」と改名した。
明治30(1897)年6月のことである。
「ある休みの日に、誰もいない仕事場の戸をこっそり開けて忍び込み、朝から夕方まで飲まず食わず、一生懸命で、我流の鋳型を作り上げ、わざと師匠の目のつくところへソッと置いておきました」「機会は待たねばならぬ、しかし自己の手でその機会を作り出すということも必要です」
権四郎の鋳物修業は、子守や掃除、使い走りからのスタートでした。なかなか仕事をさせてもらえない日が続きます。それでも諦めずに師匠や兄弟子たちの背中をみて仕事を覚えようと努力するうち、与えられないなら自分の手でつくって認めてもらえばいいと思いついたのです。実際、この我流の鋳型は師匠の目にとまり、感心なことだとほめられて仕事場へ入るのを許されました。置かれた環境を言い訳にせず、自らができることを探して、道を拓いたのです。
ある時ふと思いついて、師匠や先輩の物腰や手先の動き呼吸等をすべて読み取ることにし、また休日にはひそかに仕事場へ忍び込んで真似事をしてみたりしているうちに、だんだん形ができるようになりました
権四郎の発想や技術は、常に現場で育ち、鍛えられました。現場こそが問題解決の源泉と考え、自らも現場を離れることはありませんでした。また、学卒の技術者に対してもまずは現場に出て経験を積み、技術へ活かすよう求めました。一方で、権四郎は現場主義の限界も心得ていて、海外の新しい技術や学術を積極的に吸収するときは技術者の視点を尊重しました。ふたつの視野をもつ技術観が、数々の商品化や発明を生み出していったのです。