創業者ストーリー

創業者ストーリー
久保田権四郎翁の歴史

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西洋鍛冶屋になる
~少年の日の誓い~

瀬戸内の因島で誕生

明治3(1870)年10月3日、当社創業者・大出権四郎(のちに久保田姓となる)は瀬戸内に浮かぶ因島の大浜村で生まれた。現在の広島県尾道市因島大浜町である。父は岩太郎、母はキヨで、長男政太郎、長女サクノ、次男茂平に次ぐ三男の末っ子であった。

明治終わりごろの大浜村

大浜村は当時約240戸・1200人余りが海岸沿いに暮らすのどかな村で、大出家は木工製作を兼業する農家であった。

権四郎は背の低いやせた少年で、お寺の本堂を教室にした村の小学校にはあまり行かなかったようだが、細かいところまできちんと行い、根気強く、利発であったという。その少年がふるさとを離れて単身上阪することを決意した背景には、当時の租税制度の変革があった。

明治初期の大浜小学校教室だった見性寺本堂
貧困のなかで心に刻んだ誓い

権四郎が生まれた当時、大浜村は決して貧しい集落ではなかった。ほとんどの家屋が瓦屋根のどっしりとした構えで、城下町を思わせる風情さえ漂っていた。権四郎の家もまた、裕福とはいえないまでも暮らしに困ることはなく、夫婦と4人の子どもたちが幸せに暮らしていたのである。

ところが、江戸時代の米納年貢に代わる金納租税が地方まで行き渡るにつれ、家計は急激に悪化し、両親は毎日のように生活の苦しさを嘆くようになった。権四郎が7、8歳の頃である。家の中から笑顔が消えていくのを見て、権四郎は何とか立身出世して貧乏から抜け出したい、親孝行をして笑顔を取り戻してあげたいと心に誓うようになった。

大出権四郎(向かって右後)と母キヨ、姉サクノ、次兄茂平
蒸気船に描いた夢

権四郎はときおり近所の丘に登って海を眺めた。沖には荷を運ぶ千石船が行き来し、帆船に混じって蒸気船も見られる時代になっていた。その風景が、権四郎の未来を決めた。船乗りになろうと思ったのではない。鍛冶屋になろう、西洋鍛冶屋になってあの船を動かす機械をつくろうと思い立ったのである。

鍛冶屋になるにはどうすればいいか。大阪に出て奉公をするしかない。そこで権四郎は自分の思いを両親に打ち明けたが、どうしても認めてもらえない。年端も行かない子どもを働きに出すのは忍びなかったのである。結局、権四郎はこっそりと船に乗り込み、炊事や水くみの仕事をしながら大阪へ向かった。

両親がそのことを知ったのは、権四郎が船に乗ったあとである。

蒸気船 岩倉大使欧米派遣図(山口蓬春画)の一部
(明治神宮聖徳記念絵画館蔵)

創業者語録

健康

最も大切なことは健康であります。之れ無くしては何事も云ふべくして行ひ難いものであります。自分で事業を独立経営しやうとも、又他所に勤めを仕様とも健全なる身体を以て辛抱し通す意気があれば成功疑ひなく重宝がられ可愛がられるものであります

解説

権四郎の想いと仕事への熱量を支えたのは健康でした。どんなに立派な知識をもっていても実行しなければ何も起きません。ところがこの実行という行動がなかなか難しい。その推進力として身体を鍛錬し備えるのが重要なのだと権四郎は説きます。また同時に、その健康は目の前に与えられた仕事に興味をもって打ち込むことで改造できるとし、「仕事を楽しむは健康と能率増進の基」と題する講演も行うなど、仕事への向き合い方と健康との相互作用にも着目しています。

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