隅田川精鉄所を買収して鉄管部門を拡張
昭和2年当時、鉄管の当社のシェアは42%でトップを維持していましたが、関東における拠点を確保して絶対的優位を確立するため、業界3位でシェア16%の「株式会社隅田川製鉄所」の買収に乗り出しました。
しかし、買収した工場は製品不良率が30~40%にも達し、従業員の勤労意欲も極めて低い状態でした。営業上の政策から吸収合併を避けて別会社として存続させたこの会社に常務として乗り込んだ小田原大造(のちの当社社長)は、現場で鉄管製造の基礎技術から教え直すとともに人心を掌握してモラールを高め、3年後には収益面で当社でトップの模範事業所に成長させました。
株式会社へ改組
昭和2年にわが国で起こった金融恐慌や4年10月のニューヨーク株式市場大暴落から始まった世界大恐慌で深刻な不況が続くなか、「久保田鉄工所」は株式会社に改組。鋳鉄管と鋳物を製造する「株式会社久保田鉄工所」(資本金450万円)と、農工用発動機・工作機械・はかりなどを製造する「株式会社久保田鉄工所機械部」(資本金150万円)の2社を設立しました。事業部制のはしりともいえる分社形態です。
しかし不況の影響は大きく、改組後の初年度売上高(両社合計)は528万円と、昭和3年の1,174万円から半減。業績が回復に転じるのは昭和8年頃からとなります。
オランダより相次いで鉄管を受注
わが国は昭和5年1月に解禁した金の輸出を、翌6年末に再び禁止。このため円の為替相場が大幅に下がり、輸出環境が好転します。こうしたなか、昭和7年8月にオランダのロッテルダム・ガス会社からガス用鉄管3,000tを受注、翌8年には同国フローニンゲン市からも水道用鉄管2,500tの発注を受け、欧州への鉄管初輸出が実現しました。
その後、ノルウェーやメキシコ、エジプトなどにも鉄管を輸出しましたが、昭和10年以降、世界がブロック経済体制へ移行し、またわが国の立場も悪化したため、やがてこれらの輸出は中断することになりました。
発動機専門の堺工場(現・堺製造所)を開設
昭和8年にトバタ発動機を買収して発動機の生産を増強した当社は、需要がさらに高まったことから農工用発動機専門工場の建設を計画。11年に大阪府泉北郡神石村上石津(現・堺市石津町)に4万1,860㎡の土地を購入して工場建設を進め、12年11月に操業を開始しました。
新工場の建設にあたっては東洋一の生産拠点を目指し、新設機械の過半数を欧米諸国から輸入。自動車製造の経験を活かしたコンベヤーシステムや工程集中管理システムも導入しました。その結果、発動機の生産能力は年産1万5,000台と倍増し、全国生産量の55%を占めるまでになりました。
恩加島工場で関門トンネル用セグメントを生産
大正6(1917)年に社内の鋳物部門を集約して開設した恩加島工場は、その後も土地の買い増しをおこない、鋳物業界の景気が上昇した昭和8年から工場の拡張工事を推進していきました。9年9月の室戸台風で全面冠水という痛手も受けますが、12年には工事に一応の区切りをつけ、その生産量は従来の約10倍まで拡大しました。
昭和12年に着工された国家的事業・関門海峡トンネルの建設にあたっては、14年から18年にかけて恩加島工場でわが国初の鋳鉄セグメント1万3,000個を製造しました。セグメントはトンネルの円筒構造を支える構造材で、その後も各種トンネル工事で当社製セグメントが活躍するきっかけとなりました。
創業50周年・武庫川工場(現・阪神工場)を開設
明治23(1890)年に100円の元手で創業した鋳物屋は、50年の時を経て資本金2,400万円の株式会社に成長。昭和15年10月、堺工場に軍・官・学・財界の名士500余人を招待して創業50周年記念式典を挙行しました。
この式典に合わせて完成したのが、工作機械の増産に向けて建設を進めていた武庫川工場の第1機械工場です。同工場では鉱山用巻上機や空気圧縮機などの生産を開始し、その後も次々と施設を増強。昭和18年に産業用諸機械の専門工場として完成に至りました。
空襲により各事業所が被災
昭和20年に入ると、相次ぐ空襲でわが国は大きな被害を受けます。当社も主力の船出町工場が消失したのをはじめ、市岡、鶴町の各工場や東京支店が大被害を受け、その他の工場も少なからず被害を被りました。
こうした工場設備の被害や資材の調達難、さらに流通組織の破壊などによって、昭和20年8月のわが国の鉱工業生産は戦前(9~11年平均)のわずか10分の1の水準となりました。当社でも昭和20年度下期の生産高はピーク時の44%となり、人員も約10分の1の2,000人まで激減しています。