2021 . 04 . 28 / Web

PEOPLE

大阪企業家ミュージアム 久保田権四郎特別展「コレラ時代」の企業家から学ぶ
「コロナ時代」を切り開くヒント

写真・文:クボタプレス編集部

新型コロナウイルスの世界的な流行が始まって1年あまり。日本でもワクチン接種が始まりました。通常のワクチン開発は数年以上かかるともいわれているので、今回は異例のスピードです。同じ期間には、遠隔コミュニケーションなどの分野でも目を見張る変化がありました。その成否は慎重に見極める必要がありますが、いくつもの革新的な技術が混迷の時代を切り開こうとしてることは間違いありません。

思い返すと、私たちは子どものころからたくさんの予防接種を受けてきました。それは人類と感染症の長い闘いの歴史でもあったわけです。ワクチンだけでなく、生活インフラや医療態勢の整備などでも、たゆまぬ努力と挑戦の積み重ねがありました。こうした歴史を振り返ることが、これからの時代の企業経営や生き方のヒントになるのではないか。そんな興味から、大阪商工会議所が運営する大阪企業家ミュージアム(大阪市中央区)を訪ねました。

バトンをつなぐ企業家たち

ミュージアムでは、大きな足跡を残した企業家たちの精神を受け継いで次の時代を担う人材を育てようという理念のもと、105人の経営者が紹介されています。クボタ創業者の久保田権四郎(1870-1959)もそのなかの一人です。創業130周年に合わせた特別展示も開催されていました。(開催期間2020年11月11日~2021年2月18日)

「たしかに今はコロナですごく大変ですけど、130年前もコレラで大変でした。社会的に解決すべき課題は常に何かありますよね。それを解決していくことで社会的に必要とされる企業になるのではないでしょうか」

展示を担当する阿部真弓さんと上野尚子さんに居並ぶ企業家たちの共通点を尋ねると、まずひとつのヒントを示してくれました。

足跡を順に見ていくと、確かに企業家たちは、リレーのバトンをつなぐように各時代の課題に挑み、道を切り開いてきたことがわかります。経済の土台を築いた人たちに始まり、産業を興し、貿易を担った人たち、都市インフラを築き、生活の近代化を先導した人たち。証券市場の開設からインスタントラーメンやスーパーマーケットまで、数々の挑戦と革新が私たちの生活を豊かにしてきました。                                                     

権四郎はどのような経営者だったのでしょうか。特別展示では「『外国にできて日本にできぬはずがない』という信念のもと、苦難の末に日本で初めて水道管の量産を成し遂げた権四郎の企業家精神は、新型コロナウイルスの脅威に対峙する我々に、大きな勇気を与えてくれる」と紹介されていました。

近い世代の企業家には、武田薬品工業の武田長兵衛(5代目、1870-1959)、サントリーの鳥井信治郎(1879-1962)らがいます。渦巻き型の蚊取り線香を開発した大日本除虫菊(KINCHO)の上山英一郎(1862-1943)や、大林組の大林芳五郎(1864-1916)、阪急阪神東宝グループの小林一三(1873-1957)ら、インフラ整備や公衆衛生に関わる分野が登場するのも時代の特徴といえるかもしれません。

彼らが活躍したのはちょうど「コレラの時代」でもありました。

「コレラ時代」のイノベーション

感染者数が新聞に載り、劇場や遊技場が閉鎖———。まるで現代のコロナ禍のような状況が、百年以上前の日本にもありました。当時の人々は、世界的に流行した伝染病のコレラに苦しんでいました。

コレラはインドの風土病でしたが、人の移動の広がりによって19世紀に世界的な大流行(パンデミック)を起こします。人口が急増していたヨーロッパの大都市でも大きな脅威となり、感染症対策として清潔な水を確保するための上下水道の敷設や住環境の整備が進められました。よりよい環境を求めて、新たな住宅地も開発されます。パリの大改造やロンドン郊外での田園都市構想といった、現代につながる都市計画にもコレラの影響があったといわれています。

日本では江戸時代後半の開国にともなって大きな流行が繰り返されました。1879(明治12)年と1886(明治19)年には全国で10万人を越える死者が出ました。東京や大阪などの大都市では、ヨーロッパと同じような公衆衛生対策に着手します。

大阪で鋳物職人となった権四郎が挑んだのは、対策のカギをにぎる水道管の量産でした。水道に使う口径の大きな丸い鋳鉄管には高い技術が必要で、当初は外国からの輸入頼みでした。権四郎はさまざまな試行錯誤の末、1897(明治30)年に最初の鉄管を開発します。なおも改良の手を緩めず、3年後には合わせ目のない製造技法を完成させ、1904(明治37)年にはついに量産技術を生み出しました。鉄管事業は一気に拡大し、いまもクボタを支える大きな事業として続いています。

一方、自然と共生する住環境を目指したイギリスの田園都市構想をヒントに、東京に高級住宅地・田園調布をつくったのが渋沢栄一(1840-1931)であり、関西で鉄道の沿線開発を進めたのが小林一三でした。鉄道事業と不動産開発を経営の両輪とする小林の手法はその後、日本の私鉄経営のモデルとなります。

久保田権四郎の先見性

時代の要請に応えることで事業を発展させた企業家たちですが、一つの事業にとどまらず次を見据えたところが権四郎のユニークさだと上野さんは指摘します。

「水道管が行き渡ると、別の分野に進出していきました。先見性にすぐれた方なんだと思います」

水道管に続いて取り組んだのは自動車でした。1919(大正8)年に米国人から特許を買い取って製造を始めます。1931(昭和6)年に発売した小型自動車「ダットソン」は試験走行で大阪—東京間をノンストップで走りきる性能の高さが売りでした。外国製の車との競争は厳しく権四郎は撤退しますが、事業は譲渡先で花開き、後の日産自動車につながります。

第二次世界大戦後には、将来大きな柱となる新事業に着手します。それが農業機械でした。権四郎は戦時中から目を付けていた「土掘り機械」の改良に取り組み、1947(昭和22)年に耕うん機の第1号機を完成させます。この時になって、自動車事業で培った技術が貢献しました。権四郎の遺志を継いで、クボタは1960(昭和35)年に国産初のトラクタを発売。さらに自動結束式のバインダーや田植え機の開発を通じて、農作業の大幅な機械化を実現しました。

新しい挑戦は、思った通りの結果につながるとは限りません。しかし、その経験の積み重ねが新たな展開につながることがあります。自動車事業で培った技術や提携先との関係は、農業機械事業の大きな糧となりました。常に社会的な課題に挑戦するという企業家たちの精神は、時代が変わっても企業経営にとって重要な指針といえそうです。

受け継がれる企業家の精神

――過去の企業家たちの姿は現代の来館者にどう映っているのでしょうか。

ミュージアムには小中学生がよく訪れます。阿部さんは子どもたちに説明するとき、同年代の権四郎が子ども心に家の貧しさをなんとかしたいと考え、14歳でひとり大阪に出て働こうと決意したところから話すそうです。現代っ子からは「まったく違う世界で、想像できない」という反応もある一方で、「外国にできて日本にできぬはずがない」と鉄管製造に挑んだ姿勢には「かっこいい」「チャレンジしたい」という共感もあるそうです。企業家精神はこうして時代を超えて受け継がれていくのかもしれません。

クボタが2030年に向けて掲げている長期ビジョンには、「社会課題・メガトレンドを見据えたトータルソリューション」とあります。くらしの安心安全を生み出す水や空気の技術や、食料生産の効率化をすすめるスマート農業技術、さらに積み重ねてきた経験の中にも時代を変える新たな芽はあるはずです。受け継がれてきた企業家精神によって、大きなイノベーションを起こすことを期待したいです。

参考文献
奥武則(2020)『感染症と民衆』平凡社
クボタ社史編纂委員会(1990)『クボタ100年』クボタ

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