GLOBAL INDEX
March 2015

FEATURE
"Myanmar"

01

動き始めた
ラスト・フロンティア

ヤンゴン市内のランドマーク的存在のサクラタワーから、市内を望む

支援し続けた日本

ミャンマー(旧ビルマ)の歴史は、波瀾万丈だ。16世紀にはタイのアユタヤまで勢力を伸ばす王国だったが、19世紀にイギリスとの戦争に敗れイギリス領インドに編入された。しかし、太平洋戦争時に日本軍と連携を図り、1948年イギリスから独立を果たす。その後、長きにわたる社会主義政権の鎖国状態により、経済発展が大幅に遅れた。だが、2011年に現在のテイン・セイン大統領が選出され民政移管が実現し、外資の導入を積極的に開始する。これが、“アジアのラストフロンティア”といわれるようになった所以だ。

加えて、ミャンマーの生産年齢人口(15~64歳)は約70%弱に達し、20歳以下は約1/3という理想的な人口ピラミッドを構成している。また、学校に行けない子どもにもお坊さんが読み書きを教える僧院制度があり、識字率は90%を超える。さらに、敬虔な仏教国であり、治安が良く、精神的な豊かさを重視する国民性は大きな可能性を秘める。

夕闇に浮かぶシュエダゴン・パゴダ(「黄金のヤンゴンの仏塔」という意味)
ミャンマーの天然の化粧品「タナカ」の木。すりつぶして顔に塗ると日焼け止めと肌を冷却する効果があるという
シュエダゴン・パゴダには、毎日多くの人々が参拝に訪れる

日本との関係は、1954年の戦後賠償から修復される。日本が戦後賠償を行った最初の国がミャンマーだ。2億ドルの賠償と10年間で 5,000万ドルの経済協力を行った。この資金で水力発電所を整備し、クボタ、マツダ、日野自動車、松下電器が参加する工業化プロジェクトを開始。その後も日本は、1968年に円借款の第一号を、1975年無償資金協力の第一号をそれぞれ供与し、支援を継続的に行ってきた。一時、軍事クーデターなどがあり新規円借款を見合わせたが、緊急・人道案件などで支援を続けた。そして、2011年の民政移管を受け、本格的に支援を再開することとなる。

当時のミャンマーの対外債務は約110億ドル。そのうち日本は,日本円で約5,000億円と最大の債権国だった。2012年、対ミャンマー円借款の延滞債務の解消の道筋が表明され、2013年に延滞債務の解消措置を実施した。これにより、ミャンマー経済は復興へと向かうこととなる。現在も日本からの有償・無償資金協力、技術協力が続いている。

クボタとミャンマーの深い交流

クボタとミャンマーの関係も深い。戦後賠償が始まる前年の1953年、クボタはミャンマーへ農業機械(耕うん機)の輸出を開始した。その翌年に、戦後賠償の交渉で日本を訪れた当時のビルマ賠償使節団がクボタの堺工場を訪問することになる。これは、当時のビルマ政府が戦後賠償で同国の工業化を計画しており、耕うん機を現地生産プロジェクトに指定したからであった。これにより、前述した工業化プロジェクトへと進展する。

ミャンマーとの関係を構築したクボタは、1955年にはミャンマーに向けてポンプを初輸出する。ポンプでも高い評価を得て、1957年、灌漑用エンジンポンプセットが賠償品目の指定を受けることとなる。翌1958年、ポンプの技術員を現地に派遣し、アフターサービスを開始。ここからクボタのポンプは、ミャンマーで大量の実績を積み上げていく。1960年にはビルマ農業開発公社からジュート畑灌漑ポンプ用エンジンセット580台を、翌1961年には灌漑用ポンプセット1,000台の契約を受注する。当時、クボタのポンプはミャンマー国内の全数量の90%を占めるに至った。

建設と技術指導を行ったビルマ重工業公社シンデ製造所(1969年ごろ)
ビルマ向けエンジンポンプセット(於:武庫川工場、1961年)
シンデ鋳物工場(2012年ごろ)

ビルマ政府の工業化プロジェクトの一つとして、クボタは1962年にビルマ政府と農業機械の製造に関する技術提携契約を締結し、エンジン・ポンプなどの生産工場の建設に携わった。これがシンデ製造所であり、多数の技術者の派遣、研修生の受け入れによって技術指導を行い、ミャンマーの農業の発展に大きく貢献した。さらに1978年には同製造所内の鋳物工場建設を受注し、部品鋳造から、機械加工、組立までクボタが一貫指導した。

その後、1987年には約10,000haを灌漑するポンプ設備を納入、1997年には鋳物工場のリハビリのための資材の供与と技術指導を無償で実施した。2013年にはODAにてトラクタ25台を、2014年にも同93台を納入している。戦後賠償から始まったクボタとミャンマーの深い交流は、今日まで連綿と繋がっている。