「耕うん機」を開発
戦後、国政の緊急課題となった食料の確保。農地改革で多数の自作農家が誕生し、かんがいや脱穀、籾摺など用途も広がって発動機の需要が急増したため、堺工場では昭和20年9月に石油発動機の製造を再開しました。
昭和10年頃にスタートし、戦争で中断していた耕うん機の研究もこれを受けて再開されます。当社は22年に「旭産業株式会社」(現・クボタ精機株式会社)を設立して同年5月に試作機1号機を完成。第1回全国農業機械化展に出展し、同年9月、クボタロータリ式耕うん機K1型として発売しました。しかし、本格的な耕うん機時代の訪れには早く、事業としての確立は30年代半ばまで待つことになります。
「ポンプ」「遠心力鋳鋼管」の製造を開始
当社がポンプ事業に本格参入して1号機を完成させたのは昭和27年末、「関西電力株式会社」飾磨発電所から受注したボイラー給水用タービンポンプでした。しかし、ポンプ市場は官需・民需とも既存メーカーに占められており、ようやく事業が軌道に乗ったのは人口の都市集中で大型ポンプの需要が高まった30年代後半でした。
また、昭和27年にはさまざまな困難を乗り越えて遠心力鋳鋼管の国産化に成功。最初の製品は「九州電力株式会社」へ火力発電所用灰流管として納入しました。
「久保田鉄工」に改称。建設機械事業へ進出
昭和25年に勃発した朝鮮戦争による特需を契機に、売上げは25年度の37億円から30年度には138億円に急増しました。同時に、増資や社債の発行が相次ぎ、資本金も24年5月の2億8,000万円から30年5月には25億2,000万円に増加。28年6月には「株式会社久保田鉄工所」を「久保田鉄工株式会社」と改称しました。
同じ昭和28年、「久保田建機株式会社」を設立して建設機械事業に参入しますが、30年には自社開発へと方針を切り替えます。その頃から国内では巨大な建設プロジェクトが続出し、当社はモビルクレーンの分野で国内第1位のシェアを占めるようになりました。
「合成管(ビニルパイプ)」の製造を開始
当社事業の中核であった鋳鉄管も、鋼管、塩化ビニル管などが需要を拡大するなかで次第に市場での相対比率が低下してきました。そこで当社ではパイプの総合メーカーを目指して、昭和28年7月から塩化ビニル管の研究・試作を開始。堺工場内に英国製の押出成型機を据えて試行錯誤を繰り返し、翌29年2月に口径13~40mm管4tを初出荷しました。
当初は押出機3台・月産20tの計画でスタートした同工場ですが、昭和29年10月には押出機を5台に増設。さらに、30年には先発3社に伍して一般工業用JIS指定工場の認可を受けるまでになりました。
初の国内農機販売サービス拠点を 北海道に開設
昭和30年代に入ると農機業界は本格的な発展期を迎え、当社農機部門も33年度に売上金額で鉄管部門を超えるなど経営規模が急速に拡大しました。
そこで当社では販売・サービス網の拡充を重点施策に取り上げ、昭和30年に「旭川サービスステーション」を開設。これを皮切りに、30年代には熊本、東京赤羽、金沢、高松、岡山、新潟へとサービス網を広げていきます。
また、当社では昭和24年からユーザー向けの技術講習を実施し、32年には海外研修生の受け入れ施設を開設するなど、早くから農機の普及に力を入れてきました。
住宅建材事業へ進出
当時、森林の過伐採による建築資材不足への対応や住宅の不燃化が課題となっていたことから、当社は米国ジョンスマンビル社と技術提携。昭和32年11月、不燃建材カラーベストの製造・販売を目的とする「久保田建材工業株式会社」を設立し、神奈川県小田原市郊外に新設した工場で、35年11月から製造を開始しました。
当初はカラーベスト・シングル(壁材)とコロニアル(屋根材)を9対1の割合で販売していましたが、昭和40年代に入ってプレハブ住宅産業が興隆してくるとコロニアルのデザイン性や施工性の良さが認められ、コロニアルの販売も軌道に乗り始めました。
初の海外農機生産拠点をブラジルに設立
当社が戦後初めて海外に進出したのは、日系市民が多く、戦前から当社を含めてわが国の発動機が数多く輸出されていたブラジルです。
昭和30年代に入ってブラジル政府が国内産業育成のために輸入規制策を打ち出したため、32年に「マルキュウ農業機械有限会社」(現・ブラジルクボタ有限会社)を設立。35年4月から耕うん機KF形の現地組み立てを開始しました。
これに続くのが昭和35年12月に台湾で設立した合弁会社「新台湾農業機械股份有限会社」です。台湾へは26年からロータリ式耕うん機K3B形を輸出して高い評価を得ていましたが、ブラジルと同様の理由で輸入が禁止されたため、35年末から現地で耕うん機・エンジンの生産を開始しました。
「スパイラル鋼管」の試作・製造を開始
昭和29年から板巻き式溶接鋼管の製造に着手していた当社は、32年に米国アームコ社のスパイラル鋼管製造技術を導入。堺市築港の埋め立て地に大浜工場を新設して34年10月から試作を開始し、翌35年2月の大阪市向け水道管で本格生産に入りました。
アームコ社では生産量の2割近くが基礎杭用であったことから、その後、当社も販路の拡大を促進。折から、わが国では臨海部の埋め立てが盛んとなり、軟弱地盤の基礎杭として従来のコンクリート杭に代わってスパイラル鋼管を採用する現場が増えてきました。
創業70周年
創業70周年の式典は、昭和35年10月1日、記念事業の一環として計画された本社新社屋(現・クボタ第2ビル)で挙行されました。この年の暮れには国民所得倍増計画が閣議決定され、日本経済は驚異的な経済成長の道を歩みます。当社の売上高も35年度の456億円から40年度には812億円となり、資本金も35年4月の88億円から40年4月には279億円へと急増しました。
またこの年、当社では畑作用乗用トラクタT15型を完成させたほか、千葉県船橋市の湾岸埋め立て地に船橋工場を新設、全額出資の子会社久保田水道工業株式会社」(現・株式会社クボタ建設)がカンボジアの首都プノンペン市でわが国初の海外水道工事を竣工させるなど、次代へ向けて大きな一歩を踏み出す年となりました。